愛犬

実家で飼っていたビーグル犬のビリーが今日亡くなりました。
15歳でした。





1994年、私が中2のとき、部活から帰るとリビングに段ボールが置いてありました。
「何だろ?」と思って中を覗くと、そこには真っ黒で小さな犬が。
その時の衝撃と言ったら今でも忘れられません。
というのも、父と姉は動物好きですが、私と母は動物が苦手だったから。
動物園や水族館で…というのなら大丈夫なのですが、自分の家で飼うなんて。
後から話を聞くと、父が独断でペットショップに行き、姉にだけは電話をしてどの犬種がいいかを聞いたとのこと。
青天の霹靂にも程がある事実に母は怒り、私は思考が停止していました。
近所に犬を飼っている人や友人はいたから“ペット”の意味は分かっていても、それを自分に置き換えると何かが噛み合わなくて、その意味が本当に分かりませんでした。
この時は、父と姉が世話をする、という形で場は収まったものの、勿論そんな簡単な問題ではなく。


生後数ヶ月でウチに来たビリーは、母親・人恋しさに夜通し泣き、当時は室内で飼っていた為にその声も家中に響き渡って。
元々犬が好きでなかった私は本当に嫌いになるんじゃないかと思いました。


でも、ずっと一緒にいて、呼びかけると応えてくれたり、遊んで欲しいとなついてきたり。
いつの間にか本当に家族になってしまっていて、触られて顔を引き攣らせていた時期が嘘のように大好きになりました。
それをきっかけに犬が好きになり、動物が好きになり。
どんなに形の違う生き物でも、触れれば温かくて鼓動を刻んでるんだっていう当り前の事実をようやく理解したんだと思います。


そんなきっかけを与えてくれたビリーですが、猟犬用に改良された犬種だけあって、食欲旺盛でやんちゃで野山を駆け巡るのが好きで。
父親が登山が好きということもあって、よく一緒に山登りに行きました。
どんどんと先へ進む父とビリーから遅れて私がゆっくりと後から登っていると、「大丈夫?」と心配したようにビリーが戻って来てくれたりしたこともありました。
ある時は藪に入り過ぎて蜂に指されたりマムシに噛まれたりして、顔や耳が2倍にも膨れ上がったことがありました。


そんな怪我はしていましたが病気という病気はしたことがなくて。
この正月に実家に帰った時も、普通に自分の足で散歩も出来、若干耳は遠くなっているものの呼べば振り返り尻尾を振ってくれていました。
年齢的にそう長くないことは分かっていたので、何日かおきに動物病院へ通院していたのですが、そこの先生からも「頭もはっきりしていてボケていないし、自分の意思で身体を動かすこともできるし、本当に飼い主思いの良い子ですね」って。


本当にその通りだと思います。
どうしたって人間の生きる速度と犬の生きる速度は違うから、否が応にも愛犬の老化していく過程を見なければならない。
その上、痴呆や寝たきりになって介護が必要になると心身ともに辛くて。
さらに“安楽死”という選択肢を考えなければならなくて。
そんな苦労をさせないでくれたビリーは、本当にどんだけ良い子だったんだろう、と。


今日もお昼病院に行って13時頃に帰って来て、その時はいつも通りで。
15時くらいに様子を見てみると、もう返事がない状態だったということでした。
その表情も安らかで、特に苦しんだ様子はなかったようだということがせめてもの救いでした。
母は私や姉に連絡すべきかどうか悩んでいたようですが、以前から「そんな時がきたら絶対に連絡して」と言ってあったので、遅れながらも連絡してくれました。
聞いた直後は何だか実感が湧かなくてボンヤリしていたけども、今こうして振り返ってみると凄く辛い。
それだけ私の中で大きな存在となっていたんです。


ビリーの遺体は後日火葬して、家の庭に埋めるということでした。
次に実家に帰ってもビリーはいないんだという事実がやっぱり寂しいですが、今はただ、ありがとう、と言いたい。


本当にありがとう。
大好きだよ。